初の日本行き
1998年、「バニー」がアカデミー賞を受賞後、それを機に私は日本を訪れ、他のアニメ制作者たちに会うことができました。私たちはスタジオジブリを訪問することもでき、宮崎監督にも直接お会いすることができました。これは夢のような出来事で、この思い出は私にとって一生の宝物で、今でも私の心に残っています。
1974-1992
私は映画好きの父の息子として育ちました。「ニュー・シネマ・パラダイス(1988)」というイタリア映画がありましたが、我が家の場合、悲劇でない80年代のアメリカ版「シネマ・パラダイス」のようでした。
父が映画館を経営していたこともあり、私は幼少時代から映写室に行き、フィルムを送る映写機のけたたましい音を聞き、スクリーンに映し出される映像を見て育ちました。今となっては懐かしい思い出です。
父はシネマスコープの「ベン・ハー」や「スター・ウォーズ」など、珠玉の映画の16mmプリントを所有していました。なかでも「スター・ウォーズ」は私に多大な影響を与え、私自身が映画制作者になることを決めた決定打となったと言っても過言ではありません。
父は中西部で初のビデオ店のひとつとなった"Video to Go"をオープンしました。私はそこで数多くの外国映画やアジアの映画、またアニメに触れ、それにより映画制作に対する視野が広がりました。
父はよく私をシカゴとラスベガスで開催された地元のCESショー(Consumer Electronics Show: コンシューマー・エレクトロニクス・ショー。50年以上続く全米ハイテク業界の祭典)に何度か連れて行ってくれ、私はそこで映画やゲーム業界について異なった視点を得ることができました。ある時はそこでスーパー・マリオの生みの親である伝説のクリエイター、宮本茂氏にも会うことができたのです!
1985
70年代のゲーム機(アタリ2600、インテレビジョン、コレコビジョン)の人気が下火になった後、80年代の日本のバブル経済期に、任天堂のエンタテインメント・システムとセガのマスター・システムという新しい日本製ゲーム機が市場に登場しました。その後まもなく、ゲーム機はセガ・ジェネシス、NECターボ・グラフィックス(PCエンジン)といった16ビットに移行し、スーパー任天堂(スーパーファミコン)がゲーム機のパフォーマンスを次のレベルへに進めました。
ある日、トイザらスで偶然、その日発売となったNES(ファミリーコンピュータ)を見つけたのです。あの時の運命的な出会いは今でも忘れられません。夏の間ずっと近所のセブンイレブンでスラーピー(炭酸フローズンドリンク。米セブンイレブンの定番の飲み物)をすすりながらスーパー・マリオ・ブラザーズをプレイしていた私は、自宅で大好きなゲームができることを知り、感動に震えました。
1991
'80年代から'90年代にかけて、優れた映画やゲームが登場したのに加え、アニメの世界も黄金期を迎えていました。
「アキラ」、「攻殻機動隊」、「獣兵衛忍風帖」、 「ロボット・カーニバル」、「メモリーズ」、「迷宮物語(サブ・タイトル:「 Manie - Manie 」)など は、日本のアニメに興味を持つきっかけとなりました。
1980-1992
80年代に一見まったく関連のない体験の数々を通じ大いに私をインスパイアした映像作家がいました。それは、「クリフハンガー(「カリオストロの城」のレーザーディスク版)」という名のアーケードゲーム、ビズメディアから出版された「風の谷のナウシカ」の漫画、そして「 Warriors of the Wind (風の戦士たち)」というアニメ映画(風の谷のナウシカの改悪再編集バージョン)でした。
その後 1992 年、大学が始まって最初の週に、「天空の城ラピュタ」の上映にたまたま足を踏み入れ、私は圧倒されました。この映像作家にいて知るにつれ 、幼いころに私をインスパイアした人物と同じだとやっと気づくことになるのです。それは、宮崎駿でした。
トイ・ストーリーがCGアニメーションの新時代を切り拓いていた頃、私は美術大学でコンピューター・アニメに目覚めました。在学中、アルフォンソ・キュアロン監督の「大いなる遺産(Great Expectations)」のプロダクション・アシスタントとして、実写版の映画制作の現場を垣間見る機会も得ました。
ブルースカイ・スタジオでの勤務は、私を大きく成長させてくれる貴重な時間でした。私はアニメーターとして1997年に入社。そこには監督を目指す熱心な眼差しを持つ新卒者から、風雪を経たテクニカルのリギング・スーパーバイザーまで様々な人がおり、多くの貴重なことを学びました。
ブルー・スカイでの最初のプロジェクトは、クリス・ウェッジ監督の『バニー』という短編映画で、後にアカデミー賞を受賞しました。
また、ブルースカイ在籍初期の頃には、ブルースカイで撮影されたリチャード・ウィリアムズの「アニメーターズ・サバイバル・ツールキット」のビデオに、偶然にも出演することもありました。
ブルースカイのリギング部門(何年も前に設立に携わった部門)を7年間管理統括する中で、業界のトップクラスの優秀な人たちと共に働く機会にも恵まれました。また多くの長編映画に携わることができたことにより、制作に関する知見を得ることもできました。
ブルースカイは特別なスタジオで、素晴らしい人たちで満ち溢れていました。今でもブルースカイで働けたことを光栄に思います。たとえどんな道に進もうとも、幸福を感じるものの近くに自分を置くことは大事だと思いました。
1998年、「バニー」がアカデミー賞を受賞後、それを機に私は日本を訪れ、他のアニメ制作者たちに会うことができました。私たちはスタジオジブリを訪問することもでき、宮崎監督にも直接お会いすることができました。これは夢のような出来事で、この思い出は私にとって一生の宝物で、今でも私の心に残っています。
日本訪問の2年後、思いがけない機会が訪れました。プロダクションI.Gの創立者である石川光久氏から、「イノセンス:攻殻機動隊2」でCGクリエーターとして一緒に働くことに興味があるかとお声をかけて頂いたのです。もちろん二つ返事で引き受けました。
今でも来日した初めての夜のことをよく覚えています。真新しい布団に横になり天井を見つめながら、つぶやきました。『日本語はまったく話せない中、こんなに遠いところへ来てしまった。私はいったい何をしてしまったのだろう?』と。
しかし日本での数年間は想像以上でした。やりがいのある仕事に従事でき、日本のアニメ制作のシステムを直接学ぶ機会になりました。
またプロダクションI.G在籍中、ありがたいことに制作だけでなく、アニメのビジネス面でも経験も積まさせて頂きました。
加えて、ギレルモ・デル・トロ、クエンティン・タランティーノ、ジョエル・シルバー、ジェフリー・カッツェンバーグ等、ハリウッドの面々が日本のアニメに興味を持ったこともあり、彼らとのミーティングに参加する機会も頂きました。また石川社長からは、"Samurai from NYC“(「ニューヨークからやってきた侍 」)という、日本での生活をつづったブログを書いてほしいと依頼されたこともあります。
© 2004 Shirow Masamune/KODANSHA · IG, ITNDDTD
© 2002 Shirow Masamune ・ Production I.G/KODANSHA
日本での数年の滞在を経てアメリカに帰国後、アビッド/ソフトイマージに短期間在籍。そしてその後、ルーカスフィルム・アニメーションに勤務。スカイウォーカーランチにあったこの会社では私は7番目の社員として採用され、CGスーパーバイザー職を務めることになりました。在職中、数多くの貴重なことを学び、新スタジオのオープニングやアニメ「クローン・ウォーズ」シリーズの最も印象的なキャラクターの誕生にも立ち会うことができました。
ブルースカイに復職後まもなく、リギング・スーパーバイザーとして働き始めました。2013年、ブルースカイの許可を得て、プロダクションI.Gに、湯浅政明監督の短編映画「キックハート」の制作を持ちかけました。これはキックスターターで約22万ドルを集め、クラウドファンディングを活用し成功した最初のアニメ作品となりました。この「キックハート」は、ペンデルトン・ウォードと湯浅政明氏との思いがけないコラボレーション、「アドベンチャー・タイム:フード・チェーン」の間接的なきっかけとなり、それがやがてアニメ制作会社サイエンスSARUの誕生につながりました。
2016年、プロダクション I.G時代の同僚だった櫻井大樹と偶然再会。彼はNetflixの新しいアニメコンテンツ部門の責任者として勤務しており、私にオリジナルのアイデアを売り込む機会を与えてくれました。企画を共に協働した後、私は自身のIPをNetflixに売却。そして2018年、キュービックピクチャーズを創業しました。
「エデン」の制作を通し多くのことを学びました。またNetflixと私を支えてくれた才能あるプロデューサーたちなしには成し遂げられなかったことです。まさに文字通り20年越しの夢を実現することができました。
エデンは他の好機にもつながり、それには「スター・ウォーズ:ビジョンズ」も含まれます。日本のアニメとスター・ウォーズを融合させたいと常々思っていた私は、このような機会を得て非常に光栄でした。
キュービックピクチャーズの成長過程に興味を抱き 、フォローしてくださっている皆様には心から感謝しています。夢を実現するための道のりは複雑であり多くの予期せぬ紆余曲折があります。その道のりを歩むには、スキル、情熱、そして強い信念が必要です。
伝統的な日本のアニメーションの技巧と西洋のストーリーの感受性に導かれ、文化の壁を越え、コアなファンのみならず世界中の人々に楽しんでいただけるトップクラスのアニメーションを制作することを使命としています。
すべてのコマに物語がある